長淵剛 「気張いやんせ」

畑にまむしが出たからではないが、昨夜は女房と長淵剛の気張いやんせを聞きながら、昔話に話が弾んだ。
沖縄ほどじゃないが、わが郷土にも歌舞音曲を得意とする人物がいたのか(笑い
 
いろいろな地方や県を渡り歩き、地方の文化に触れて思うことは、それぞれの地方の気質が長い歴史の中で脈々と受け継がれ、地方の誰の中にもその血が眠っているということだろうか。
 
又さんのように氏、素性がはっきりし、常日頃それを意識しながら生きてる場合を除き、普通はただ漠然と自分の考えで生きて死んで行くのだろうと思っているが、実際は持って生まれた気質、もっと言えば先祖から受け継いできた血、否記憶が我々を突き動かし、生かしてきたのかなと、この歌に共感しながら思わざるを得ない。
 
私はトルコ軍隊行進曲が好きだ。大草原を行軍した記憶がよみがえるようなすがすがしさを感じるからである。
当事者は勇壮な自軍の行進と思って聞いておられるような気がするが、私には負け戦さ、あるいは指揮官の棺桶を担ぎながら大草原をりりしく荘厳に退却して行く葬送曲にしか聞こえない。
つまり、そこには荘厳な悲しみが伏せられている戦いの歌の様に私には聞こえるのである。それも自分の原体験として。
 
この長淵の歌も一見、頑張れ!の積極的な歌のようにも聞こえるが、実際の心は負けてもいいから自分たちの一心を生き抜こうと言う悲しみを感じる。
遠い昔、蛮族薩摩隼人大和朝廷に制圧された歴史を持ち出すまでもなく、関ヶ原の戦い木曽三川の薩摩義士、そして西南の役の西郷の自刃に至る負け戦の哀愁が漂っているのである。
 
しかし、その悲しみや哀愁こそが我らの生きざま、それにひるむことなく生きていこう!そう呼び掛けた歌に聞こえるのは私の薩摩人としての感性だ。
長淵が桜島を背景に謳った歌はきっと薩摩隼人の記憶を否、血を表現したものだと思う。桐野利秋とは長淵のような感じだったのか。
 
前つんのめりで生きていこう♪
一度ぐらいは死んだ気で頑張ろう♪
 
 
長淵剛 「気張いやんせ 」
 
 トルコ軍隊行進曲