モノづくり日本と職人
週末は雨なのでなかなかブログの更新がままなりません。
「閑話休題」
農業のまねごとをやって10年、モノづくりの極めつけはこの「職人」という言葉にあるような気がしてきました。
「職人」と言うとなんか融通のきかない視野狭窄の頑固者という感じがしますが、実際モノづくりをしてみると、そのものの本質を捉えないと良いものは出来ません。単にテクニックで作っているのが職人だろうみたいな印象もありますが決して小手先で作れるほどモノ作りは簡単ではありません。
誰かが、職人はいつでも同じものを作れるが、技術者・研究者は一つとして同じものは作れないと言っていましたが、これはともすれば手先の器用さだとか熟練性を云っているような気がします。でも実際は違います、モノの本質を捉え、現場に即して創意工夫と熟練の技を加えなければいいものは出来ません。ちょうど良い農作物を作ることと同じように^^
また職人とは、ことがより細かく狭い範囲の職人ほど専門性が高まります。農業でも単なる農業者よりも果樹や畜産、米作りと特化して行くほど専門性が高まり、さらに葡萄とか桃づくり、霜降り牛作り、コシヒカリ作りと細分化された物作りほどより高い専門性が求められますが、同様職人と言われる料理人を例に取れば、洋食とか和食全般の職人と言われるより、すし職人とかソムリエと言われる職人の方がより専門性が高まります。
つまり範囲が狭いほど道を極め易いというかより詳細がつかめるのでしょうか。そこにモノづくりの一歩前進が有るということでしょう。
モノづくりを業としている建設関係者として言えば、この職人の知識や技術こそが確かなものを作り上げる根幹だと確信しますが、建設物を作り上げるには実に多くの職種と言いますか、職人の手が必要です。それぞれがその職域において専門家、オーソリティーたらんとして取り組んでいるわけでありますから、モノづくりそのものがそこに従事する者達(職人)の修練の場でもあるわけです。
親方からいろいろな指導を受けながらその技能を我がものにせんと、多くの若者が建設業に飛び込んできているのは喜ばしい限りです。
しかし最近、こういう職人と呼ばれる人達の生活が大きく脅かされる事態が起こっています。
それは建設業者は利益追求という誤解が広まり、それならばと言う訳で価格競争を強いられてきたからです。
医者もそうだと思いますが儲けるためにやっているのではなく、医者が病気を治して健康を提供するためで有るように、建設職人もモノを作る喜びと言いますかモノを作る技術の発揚が第一で有って、その次が生活可能な報酬が有ればいいのです。
これは何も医療や建設業に限った話ではなく、日本人の生活一般にかかわる真実のような気がします。
何故、そんな馬鹿げたことを云うかと言いますと、よく考えれば人間は何かモノを作る、つまりモノづくりに何らかの形で携わり、そのことに努力や創意工夫を重ねることに生きているような気がするからです。
特に日本人はそういうことが得意で又そういう倫理観を持ってきたような気がするからです。
会社は利潤を追求するところだ!みたいな間違った論理が欧米から入ってきて、長い間日本人を形成してきたものが非常に浅はかな論理で破壊されようとしているような気がするのです。
確かに利益が無ければ継続性は有りませんが、時代は常に動いています。不必要な継続性は無駄ですが、伝統技術や伝統文化の継続は最低限守るべきだと思います。営々とご先祖が築いてきたものを失うことは、また同様に築いてきた職人技を失うことでもあります。
新しい時代には新しい職人が生まれると思いますが、職人魂ともいうべきものづくりの本質追及と創意工夫の伝統だけは引き継がれ、日本人の特質がいつまでも輝き続ける日本で有りたいものです。